自分の解読の都合のいいように原文の字は誤りだとする説も多いが好感を持てない。むしろ、原文は正しいとしてあくまで万葉仮名読みに徹し、古代日本語の起源の一つになった可能性のある外国語で解読するアプローチの方に惹かれる。以下はその一つ。
【ポリネシア語による井上政行氏の解読】
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/kokugo07.htm#%82Q%81m1-9%81n
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾瀬子之射立為兼五可新何本
なごえりしたさうなゑそゆけ わがせこがいたたせりけむいつかしがもと
「ナ・(ン)ゴ・アウエ・リ・チ」、
NA-NGO-AUE-RI-TI(na=belonging to;ngo=cry,grunt;aue=expressing astonishment or distress,groan;ri=bind;ti=throw,cast,overcome)、
「嘆きと・疲労が・一緒になった・ようなもの(溜息)が・吐き出された(場所の)」
(「(ン)ゴ」のNG音がG音に変化して「ゴ」となり、その語尾のO音と、「アウエ」のAU音がO音に変化したその語頭のO音と連結して「ゴエ」となった)
「タタウ・ナワイ・トイ・フケ」、
TATAU-NAWAI-TOI-HUKE(tatau=repeat one by one;nawai=denoting regular sequence of events,presently,for some time,for a while;toi=move quickly,encourage,incite;huke=dig up,excavate)、
「何回も・休み休み・力を振り絞って・土を掘った(自分の死体を埋める穴を掘った。場所の)」
(「ナワイ」のAI音がE音に変化して「ナヱ」と、「トイ」の語尾のI音と「フケ」のH音が脱落した語頭のO音が連結して「トユケ」から「ソユケ」となった)
すなわち、この歌の「吾が背子」とは斉明紀4年11月条にみえる紀国藤白坂で絞首された有馬皇子を指し、「厳橿が本」とは皇子にその木の下に穴を掘らせ、そこで絞首した後下に落として埋葬した穴のある「厳橿の根本」であったと考えられます。
紀によれば斉明天皇は同年10月15日に紀温湯に行幸、翌年正月3日に還幸されていますが、その間の11月5日に有馬皇子の謀反が発覚、9日に紀温湯に護送され、同日大海人皇子の尋問を受け、11日に絞首されていますから、この歌は随行した額田王が帰京の途中で藤白坂において万感を込めて詠んだものでしょう。(岩波書店新日本古典文学大系『万葉集』第2巻付録月報(96号。2000年11月)に伊藤博筑波大学名誉教授が「省却」と題する随想の中で[1-9]歌の「我が背子」は通説の大海人皇子ではなく有馬皇子と断定しておられます。)
【日本語の起源】
日本語の起源について系統論(親言語の枝分かれ説)は暗礁に乗り上げているという。日本語にこれはという一人の親が見つからないのだ。最近、大河は小さな川が集まって成立するように日本語もいくつかの外国語が重層的に集まって成立した言語ではないかと見る学者が多くなってきた(1)。日本語と文法構造や単語の音韻対応で偶然の一致の域を越えた外国語がいくつかあるとされている。しかし研究者間で幅がある。彼らは自分の説に都合のいい単語群を恣意的に集める傾向があるからだ。朝鮮語、ポリネシア語、タミル語などによる古代日本語の解読作業の論文や本が散見される(2)(3)。数十の外国語を対象にした統計的な研究ではインドネシア語、カンボジア語、ビルマ語などが日本語とかなり関係が深いと分析している(4)。サンプルの単語が100と200と少ないのでサンプル数をもっと増やせば信頼性も増してくるかも知れない。
(1)日本語の起源 新版 大野晋
(2)日本語の真実ータミル語で記紀、万葉集を読み解く 田中孝顕
(3)日本語の真実ーポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源 井上政行
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/kokugo07.htm#%82Q%81m1-9%81n
(4)日本語の誕生 安本美典・本多正久
1 件のコメント:
女性国文学者(お名前忘失)が、大相と兄を高句麗の官位(大兄、小兄とある)と解き、使節団との秘密同盟が、行われたときの光景を歌ったとの説を、額田王評伝の本で読みました。
解釈は、莫●を(しずまれ)の(しず)、円を丸(まる)で(ま)、隣を(り)、之は(し)、大相七兄は大使と7人の随員を
(大夫ら)の(い)を省き(たぶら)、爪は(つま)、謁気には湯気の異伝から湯気が立つから(たつ)で、
静まりし大夫(たぶ)ら佇(つま)だち、我が背子が……
唐や新羅に、秘密同盟があったことを知られないために、難訓にしたのでしょうか。
なお、我が背子を、国学者は中大兄皇子、評伝の著者は大海人皇子と意見が違っています。
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